竜馬の人生・第八回について 坂本龍馬のことなら龍悠会

 

坂本龍馬の人生を辿る

龍馬土佐へ帰国

龍馬が江戸での黒船騒動に遭遇していた頃、1852年に26歳の一人の元漁師が
12年ぶりに土佐に帰国した。漁の最中に遭難しアメリカの捕鯨船に救助されて
太平洋を渡った中濱万次郎(ジョン万次郎)である。
龍馬の人生第8回:ジョン万次郎
■坂本龍馬とジョン万次郎

万次郎を救助した捕鯨船の船長は彼を気に入り、養子として一緒に暮らす中で
学校に通わせた。
そうして万次郎は英語を身につけ、また数学、測量、航海術、造船技術などを修め
たのである。
この間に民主主義、男女平等などそれまでの日本には無い概念にも触れる経験を
積んだ。

その後は捕鯨船に乗り組み、副船長に選ばれるまでになるが、やがて日本への
帰国を決意する。
万次郎はアメリカから琉球に渡り日本に帰ろうとしたが、当時琉球王国に影響力
を持っていた薩摩藩や鎖国政策を採っていた幕府の長崎奉行所に送られ長期間
の尋問を受けた。
そして土佐に帰っても土佐藩から取調べを受けることとなった。

当時万次郎は日本語を完全に忘れていて話すのは英語のみ、筆談をしようにも
元は貧しい漁師の出身で文盲だったため会話が成り立たなかった。
そこで呼ばれたのが河田小龍である。
龍馬の人生第8回:河田小龍
■坂本龍馬と河田小龍

幼い頃から絵を学び、京都・大阪に遊学して書画を学んだ狩野派の絵師であり
ながら、岩崎弥太郎の叔父に当たる岡本寧浦の元で儒学を学び、長崎では蘭学も
学んだという土佐を代表する知識人であった。

小龍は蘭学(オランダ語)の知識を元に徐々に万次郎との意思を通わせるようになり
その中でアメリカの先進振りと日本との国力差を知ることとなったのである。
蒸気船、鉄道、電信といった技術や国家元首=大統領を選挙で選ぶという民主
制度などを知って彼は大いに驚いた。
こうして土佐にいながら、非常な海外事情通になったのであった。

一方、安政元年(1854年)に龍馬は江戸での剣術修行を終えて土佐に帰国した。
そうしてその年の内に龍馬は小龍を訪ねる。龍馬が帰国した安政元年8月には
小龍は視察団の一人として薩摩藩に向かい、そこで大砲鋳造のための反射炉や
造船所を見てきていた。
龍馬の人生第8回:反射炉の断面図
■坂本龍馬が興味を持った反射炉の断面図

土佐の地でそうした最先端の知識を持っていた小龍に意見を聞きに行ったのである。

最初「ただの絵描きに過ぎず意見など持たない」と言っていた小龍だった。
だが坂本龍馬が「今の時勢で、安穏と書画に耽っている場合ではない。
我々のような若者が悶々と日々を送る中、今後どうするべきかどうか教えて欲しい」
と言うとやがて自らの意見を坂本龍馬に披露した。

「技術力は改めて言うまでもなく日本が敵うものではない。
沿海諸藩は蒸気船に対抗できる船を持たず、海軍力も無い。
しかしこの黒船を契機に諸外国の船はどんどん日本に来るように
なるだろう。このままでは日本は混乱に陥るばかりである。そこで商業を起こして
金融を自在にし何としても一隻の船を手に入れ、同志を募って物資運搬の商業を
更に行いながら航海術を手中にすることが重要である。」

これを聞いて坂本龍馬は手を叩いて喜んだという。
「剣術は一人を相手にしているだけだが、志を成そうと思えば大業を起こさねば
ならない。
貴方の意見には全く同意する。今後は互いに協力して尽力しよう」と言って堅い
盟約を結んだ。
そして後日再び小龍を訪ねた坂本龍馬は「同志をどう集めるか」と小龍に聞いた。
小龍は「俸禄に満足している人間には志が無い。在野には志があっても貧しく
その力を発揮できない人材が少なからずいる。そうした人々を用いるべきだ。」
と答えた。
それを聞き坂本龍馬は「君は内にいて人を作り、僕は外にいて船を得よう。」
と言ったという。
こうして坂本龍馬は自らの進む道をはっきり自覚したのである。

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■坂本龍馬びいきのご隠居のつぶやき■
坂本龍馬大好きご隠居の一言
坂本龍馬は小龍からアメリカにおける株式会社などの商業の知識や議会制民主主義などの
政治知識も得たであろう。それを基にして亀山社中や海援隊を設立し活躍の場を
広げていくのである。

坂本龍馬 家系図