竜馬の人生・第十回について 坂本龍馬のことなら龍悠会

 

坂本龍馬の人生を辿る

坂本龍馬と土佐勤王党

井伊直弼が巻き起こした政治的混乱は土佐藩にも影響を及ぼした。
当時、江戸で幕政に盛んに参画していた土佐藩主・山内容堂は、
直弼が強行した将軍の継承に憤慨し、藩主の座を前藩主の弟である
山内豊範に譲って隠居してしまった。

坂本龍馬と山内容堂
■坂本龍馬の土佐藩、藩主:山内容堂

隠居してからも土佐藩内では隠然とした政治的影響力を持っていた
容堂は、隠居の身なので土佐に帰ることを願い出るが幕府はそれを
許さず謹慎処分を言い渡した。この頃、土佐では容堂の股肱の臣で
ある吉田東洋が藩政改革に取り組んでいた。

こんな世情の中、文久元年(1861年)に土佐である事件が
起こった。井口村刃傷事件とも永福寺門前事件とも言われる
事件である。酒に酔った上士が下士を切り捨てたことに端を発し、
上士と下士とが内戦寸前の状態にまで至ったこの事件は土佐藩
内部の鬱積した不満が表面に出てきた結果であった。

この事件には坂本龍馬と武市瑞山(半平太)も関わっている。
土佐藩内部の理不尽な身分制度に憤りを新たにした瑞山らは、
剣術修行と称して江戸に赴き、この事件の半年後「土佐勤王党」
を結成するに至った。
坂本龍馬と武市瑞山
■坂本龍馬と関わりのあった武市瑞山

そして血盟書を持って土佐に戻り同志を募ったのである。
坂本龍馬も9番目にその名を連ねている。だが武市瑞山は藩全体で
尊皇攘夷運動に取り組むべきとする「一藩勤王」にこだわり、
その考えに懐疑的だった龍馬は早々に土佐勤王党と分かれる
のである。

土佐勤王党と瑞山は、藩政の実権を握っていた吉田東洋にも
一藩勤王を説いたが受け入れられず、東洋の藩政改革(世襲制の
廃止、身分によらない人材登用など)に反発していた保守派の
上士と手を組み東洋暗殺という暴挙に出たのであった。

この後、一時的に藩の中心になった土佐勤王党であったが、
謹慎が解けた山内容堂が土佐に戻り藩政を掌握すると徹底的に
弾圧された。捕縛、投獄され拷問を受ける中で、吉田東洋を
初めとする数々の暗殺などを自白させられた
勤王党の志士たちは次々と処罰され、自身は最後まで自白
しなかった武市瑞山も切腹させられた。

こうして土佐勤王党は崩壊したが、龍馬はこの時どうして
いたのか?実は武市瑞山が吉田東洋暗殺に動く半月ほど前の
文久2年3月24日、澤村惣之丞とともに土佐を脱藩し独自の
行動を開始していたのである。

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■坂本龍馬びいきのご隠居のつぶやき■
坂本龍馬大好きご隠居の一言
山内容堂は「幕末の四賢侯」とも称された人物だが、なかなか
ややこしい人であった。勤皇とも佐幕ともつかない煮え切らない
態度は「酔えば勤皇、覚めれば佐幕」と言われてからかいの対象に
なった。幕末の時流に上手く乗ろうとしたのであろうが、実情は
混乱を招いただけであった。武市瑞山を切腹に追いやった一方、
ひどく後悔していたとも伝わる。
お家騒動になれば藩お取り潰しという江戸期にあって、いさかいの
大元になる身分制度を連綿と守ってきた土佐・山内家らしい人物とも
言えるかも知れない。

坂本龍馬 家系図