竜馬の人生・第十四回について 坂本龍馬のことなら龍悠会

 

坂本龍馬の人生を辿る

坂本龍馬と勝海舟は日本の海軍を思い描く

「坂本龍馬と私塾・海舟塾」


坂本龍馬が神戸で奔走したのは、幕府海軍操練所とは別に
勝海舟が開いた私塾・海舟塾の塾生を募るためであった。
近代的な遠洋航海術を身に着け、海軍の礎となるための人間を
集めていたのである。この時、海舟が海軍操練所とは別に
私塾を開いたのには理由がある。海軍操練所は幕府が大きく
関わっているため、ここで海軍を組織したとしてもそれは
幕府のものになってしまう。しかし、これからの世では諸外国と
対等に渡り合っていくためにも海軍は日本に必要になる。

幕府が弱体化し、海軍操練所が閉鎖されても航海術や造船技術、
海軍の基礎は今後に引き継がれるようにしなければならない。
海軍力は日本のものであって、決して幕府のものであってはならない。
それに時代が動乱期を迎えて、血気にはやった若者が命を粗末にする。
それならば将来につながることに若い力を注いで欲しい。
こう考えた海舟は、私塾を開き若者を集めたのである。

「坂本龍馬は塾頭として東奔西走していた」


海舟の私塾には、坂本龍馬がそこに関わったからであろう、
土佐の脱藩者や薩摩の荒くれ者など様々な人間が集まってきた。
望月亀弥太、沢村惣之丞、高松太郎や、河田小龍の門下生だった
近藤長次郎、新宮馬之助などはみな土佐出身者であったし、
北辰一刀流の千葉重太郎も加わっていた。土佐勤王党に属し数々の
暗殺を手掛けたことから人斬り以蔵の名で呼ばれた岡田以蔵も
坂本龍馬の口利きで一時、勝海舟の護衛を務めていたことがある。

後に海舟が語ったところによると、以蔵が護衛を務めていた時に海舟が
3人の暗殺者に襲われた。以蔵が1人を斬り倒し、残りは逃げ去った。
この事で海舟が「むやみに人を斬るのは改めた方がいい」というと
「しかし私がいなかったら先生の首が飛んでしまっていたでしょう」と
答えたという。以蔵はこの後にジョン万次郎の護衛も務めたという。

「坂本龍馬が成功させた金策」


そんな面々が集まった海舟塾であったが、私塾であるために
幕府からは資金援助は全く無かった。これを解決したのが
坂本龍馬であった。海舟を紹介してくれた松平春嶽を訪ね
何と5000両もの大金を借りることに成功するのである。
松平春嶽はいったい何を根拠に巨額の融資をしたのであろうか。
それは船を操り、海外との交易を盛んにすることで生み出される
利益を分配するという約束をする事によってであった。要するに
春嶽は海舟塾の株主になったのである。こういった発想は後の
亀山社中、海援隊へと引き継がれていく。

こうして順調に滑り出したかに見える海舟の構想であったが、
思わぬ障害がすぐ先に待ち受けていたのである。
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■坂本龍馬びいきのご隠居のつぶやき■
坂本龍馬大好きご隠居の一言
勝海舟と坂本龍馬は身分や出身にこだわらず様々な人間を
その塾に集めた。その様はまるで梁山泊だ。また将来の
利益を分配することを約束して資金を引き出すのは、現代の
株式会社そのものである。こういった面でも坂本龍馬の発想は
当時の日本人の一歩先を言っていたといえるだろう。

坂本龍馬 家系図