竜馬の人生・第二十一回について 坂本龍馬のことなら龍悠会

 

坂本龍馬の人生を辿る

坂本龍馬が活躍する土台~長州藩の貿易~


「坂本龍馬が活躍する土台~長州藩の貿易~」

長州藩は毛利元就の時代には200万石といわれた
領地を関が原後に36~7万石に減らされた。
その後必死に殖産興業に励み、ついには実石高が
100万石にまで至ったという。幕末期には一度、
藩財政が破綻の縁に立ったが、今も昔も海上交通の
要衝であり、海上輸送の拠点でもある下関を領内に
持っていることが藩を救った。まず新田を開拓して
約4万石という新たな収入源を確保すると幕府には
ひた隠しにして秘密資金とした。これを使って越荷方
(こしにかた)という役所を設置し、北陸方面の産物を
大阪に運ぶ廻船業者に倉庫と資金を提供したのである。

長州藩からの借り入れ資金で北陸方面から産物を仕入れた
廻船業者は、大阪に運ぶ前にいったん下関で産物を預け、
相場が高い品物だけを大阪に運んで売却した。
一方で相場の安いものは倉庫で保管し、相場が上昇してから
大阪に運んだ。これにより廻船業者は巨額の利益を出し、
長州藩も貸付資金の利息と倉庫の使用料を徴収することが
出来た。同時に密貿易も行って更なる利益を上げることと
なった。この貿易の経験こそが後に坂本龍馬が活躍した際に
大きな意味を持つのである。

「坂本龍馬が活躍する土台~長州藩と尊皇攘夷~」

安政五年(1858年)欧米列強の圧力に屈し天皇の
勅許を得ずに日米修好通商条約を締結した幕府は
なし崩し的に開国へと傾いていく。海外諸国との通商を
開始したが、経験が乏しい事から金の流出、生産品の
安価な大量輸出等が発生し(欧米諸国としては単に安価な
資源を調達する地として見ていたのだから当然である)
品不足による諸物価の高騰を招いた。

この不満が、諸藩の下級藩士や庶民の間に広まっていた、
国学・水戸学といった日本独自の学問体系から生まれて
きた一種の民族主義意識と結びつき、感情的な面も含めて
外国人排斥=攘夷の機運が高まってきたのであった。
長州藩内でも下級藩士を中心として過激な破約攘夷論が
徐々に語られる様になっていった。

長い間中央の政治からは疎外されていた長州藩だったが、
黒船騒動以来の時代の動きを覚り、対外的な活動を強めて
いく。時の天皇・孝明天皇は大の外国人ぎらいであり、
公武合体で朝廷が国政に関わった上で幕府の力で鎖国を
存続させるという強い意志を持っていた。
日米修好通商条約を無断で結んだ幕府に怒り「戊午の密勅」と
呼ばれる勅書(ただし正式な手続きに基づいたものではなく、
故に密勅と呼ばれた)を出している。
尊皇攘夷と孝明天皇
■尊皇攘夷と孝明天皇■

その密勅を受け藩論を攘夷とした長州藩は京都で主に公家を
相手にした活動を展開し、徐々にその存在感を大きくして行った。
当初は「航海遠略策」という開国を軸としたやや穏やかな
策を朝廷に献ずることを考えていた。これは大雑把に言うと

・一度結んだ国同士の条約を破棄することは国際道義上の問題がある
・破約して攘夷を進めることは軍事力という観点からも困難である
・鎖国は島原の乱をきっかけとしキリスト教が国内にはいってくるのを
 怖れた幕府が始めたもので朝廷の定めたものではない
・そこで開国して通商を開始し国力を高め、天皇の権威を世界に知らしめる
・やがては諸国を圧倒し朝貢させるようにする

という、捉え様によっては尊大極まりないとも思える
論である。しかし開国してしまった手前引っ込みが
つかなくなった幕府と、強硬に攘夷を求める天皇を
始めとする攘夷派、開国に断固として反対する鎖国派
などがぶつかり合い膠着状態になっていた事態の打開策
としては、どの派もそれなりに満足する玉虫色の好都合な
ものであった。開国派はもちろん鎖国派にとっても
攘夷派にしても異国勢を圧倒するという論(大攘夷という)
には満足を覚えたのである。

長州藩の大目付・長井雅楽(ながいうた)が建白した
この策は各方面で支持され長州藩の方針となった。
つまり初めは長州藩も朝廷の権威と幕府権力の融合という
公武合体策をとって幕府に協力しようとしていたわけである。

桂小五郎
■桂小五郎■

ところが長州藩には吉田松陰の弟子・久坂玄瑞
桂小五郎など強硬な破約攘夷派が多数いた。
彼らは長井雅楽の航海遠略策を「不平等条約による
開国を是認するもの」として徹底的に反対・攻撃した。
彼らの活動は長州藩主の毛利慶親にとっても無視できない
ほど強固なものであり、最終的に長井雅楽を失脚させる
ことになった。そして長州の藩論は穏健な開国攘夷から
過激な尊皇攘夷へと変わっていくのである。

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■坂本龍馬びいきのご隠居のつぶやき■
坂本龍馬大好きご隠居の一言
尊皇攘夷派の中には過激派であり、急進派である層が
多くいたことは事実である。主張していることはもっとも
であり、国を無法に蹂躙させてなるものかという意気込みは
凄いエネルギーを持っていた。一方で熱病のような興奮状態
にあったこともあるだろう。今の我々は歴史という視点を持って
冷静に見ているが、同時代人の目、坂本龍馬の目にはどのような
姿に映っていたのであろうか。

坂本龍馬 家系図