竜馬の人生・第二十二回について 坂本龍馬のことなら龍悠会

 

坂本龍馬の人生を辿る

坂本龍馬が活躍する土台2


「坂本龍馬が活躍する土台~独自路線を貫く薩摩藩~」

関ヶ原の合戦では薩摩島津家は、当主の島津義久が
反対したため主力部隊を薩摩に置いたまま西軍に
付かざるを得なかった。また西軍のあまりの統制の
無さに、戦上手と評判の高かった指揮官・島津義弘は
呆れ果て、徳川方に対する戦闘には参加せずダンマリを
決め込んだ。そして短時間のうちに勝敗が決すると
さっさと撤退してしまう。ただこの退却は現代でも
語り草になるほど凄まじいものになった。敵に囲まれた
状態で取り残され1000人前後の手勢しかいなかった
薩摩の軍勢は島津義弘を無事生還させるための退却路として
敵中のど真ん中を選び強行突破していったのである。

捨て奸(すてがまり)として知られるこの退却は
薩摩独特のもので、退却しながら途中、途中に
少人数の伏兵を残していき、追撃してくる敵兵に
鉄砲・槍などで攻撃を仕掛け足止めをするという
ものであった。残った伏兵は元より生還を期せず
死ぬまで戦うという壮絶な戦法に徳川家康は追撃の
中止を命ぜざるを得ず、薩摩側は最終的には80人程
にまで減ったものの島津義弘を無事に薩摩まで落とす
ことに成功した。おそらくこの戦闘が徳川方の心胆を
寒からしめた事もあったのであろう。
また薩摩には義弘の兄で当主の島津義久が無傷の1万を
越す軍勢を擁して健在であり、薩摩と事を構えることの
不利を悟った家康は薩摩・島津家に対し領土を安堵する
ことを約束した。この様に激しさと同時に独特の
戦略眼を備えた薩摩・島津家はこれ以後、薩摩藩藩主
として独自路線を進むことになるのである。

「坂本龍馬が活躍する土台~薩摩藩の財力と軍事力~」

領土は保ったがその後徳川幕府は有力な大名である
薩摩に対し弱体化政策をとった。薩摩に限らず有力な
外様大名は過酷な労役を課され藩財政を徐々に疲弊させた。
時代は下って幕末近く、第8代藩主島津重豪(しまづ
しげひで)は蘭学に熱心で開明的な藩主だったが財政的な
面を顧みなかったため薩摩藩は500万両という厖大な
借金に苦しむ。

孫の島津斉興の代になって藩財政改革を断行し、
藩出入りの商人に借金の返済を250年分割しかも
無利子でという無茶な条件で承知させ(脅迫して承知させた
とも言われるが実質的に借金の踏み倒しである)支配していた
琉球を通じて中国との密貿易を行い利益を上げて財政を再建した。
借金をしていた商人にも密貿易の利を食わせることで
返済棚上げの交渉材料とした。この時の蓄財が後に維新を
推進するための原動力になる。斉興の子の島津斉彬・久光
兄弟が藩の実権を握った幕末期に薩摩藩が大砲や蒸気船を
揃え軍事力を保持していたのは、この財政再建によって
豊富な資金を蓄える事が出来たからである。

「坂本龍馬が活躍する土台~薩摩藩の幕末戦略~」

一方時代に対する態度はどうであったか。実は薩摩藩は
決して幕府に敵対的だった訳ではない。藩内に多くの
学校を設立し医学や農業・天文学等を研究させた重豪は
また、幕府に対する結びつきを持つため娘である茂姫を
11代将軍・徳川家斉の正室にした。斉彬の代にも一族の
娘であった篤姫を13代将軍家定の御台所にしている。
政治的な影響力を及ぼすためでもあっただろうが、
基本的には親徳川幕府という態度であった。

幕末になって幕府の力が弱まってくると、薩摩藩は
公武合体と雄藩連合による国政を構想して活動を開始した。
薩摩藩としては天皇を頂点とする雄藩連合を考えて
いたので必ずしも幕府の強化を願っていた訳ではない
だろうが、公武合体という点で徳川幕府と一致していた。
その一方で攘夷という意識はあまりなかった。

文久元年(1861年)、孝明天皇の妹・皇女和宮が
14代将軍徳川家茂に降嫁して公武合体が現実のもの
となった。この時に孝明天皇が幕府に対し示した条件が
十年以内に鎖国体制に戻し、攘夷を実行することであった。
その影響で京都は婚儀が成立した頃から尊皇攘夷派の
志士が集まる様になった。孝明天皇から市中警備を依頼された
島津久光はこれに応えて文久二年、参勤交代名代の名目で
1000名の藩兵を率いて上洛し、自身の幕政改革案を
天皇に伝えた。この中で「沿海五大藩による大老を置き
合議制で国政を運営する事が望ましい」などという意見を
述べている。

久光からの働きかけで朝廷は幕政改革を要求する事に決め、
その命を受けた久光は江戸へ向かい江戸幕府との交渉に当たる。
無事交渉を終えて江戸から薩摩に帰る途上、武蔵国生麦村
(現在の神奈川県横浜市鶴見区生麦)に差し掛かった行列に
無礼を働いた(馬に乗ったまま行列を割って進んできた)
イギリス人を供回りの藩士が斬るという生麦事件が起こった。
そしてこの事件の賠償をめぐり、薩摩藩はイギリスと激突する。


生麦事件の起きた生麦村
■生麦事件の起きた生麦村■

薩英戦争のきっかけとなった生麦事件
■生麦事件錦絵■


文久三年(1863年)に天皇の再三の催促に重い腰を上げた
徳川家茂が「五月十日を以って攘夷を実行する」旨の奉答書を
提出した。当時既に京都で尊皇攘夷派の領袖になっていた

長州藩はこれを大義名分として4ヶ国(米英仏蘭)の艦船を相手に
下関戦争を起こす。ほぼ同時期に薩摩藩はイギリスとの間で
薩英戦争を起こした。前年の生麦事件が発端となって起きた
戦争の結果は英国の勝利、薩摩の勝利あるいは双方引き分けと
評価が分かれる。

薩摩藩は沿岸部の城下集落や城、藩施設に多大な被害を出し
藩所有の蒸気船三隻も拿捕の後沈没させられた。ただし人的
被害はほとんど出ていない。英国艦隊も(天候が悪かったことも
あったが)薩摩藩からの攻撃や艦載砲の不備などが原因で甚大な
損害を出した。この戦闘で艦隊旗艦の艦長と副長が戦死したのを
はじめ60名以上の乗員が死傷している。このことから薩摩藩の
軍事力を見直したイギリスと、攘夷実行の可能性はゼロであると
知った薩摩藩はこれを端緒として逆に関係を深めていくのである。

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■坂本龍馬びいきのご隠居のつぶやき■
坂本龍馬大好きご隠居の一言
薩摩藩は表向きはゆったりと構え、しかし内では様々な策を練り
そして機を見て猛然と動き出す。幕末には独自に反射炉を築き
砲を鋳造して先進武器による武装強化を図っていた。もっとも
欧州列強からすればまだ未熟なところも多いものであっただろうが
小国と見て侮っていた日本に、このような実力を持った勢力が
いたことは驚きでもあっただろう。

坂本龍馬 家系図